5 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:21:06.69 ID:AzWCzXT70
9、自殺行路

残された最後の望みは、自分の頭が切り落とされ、血しぶきが噴き出す音をこの耳で聴くことです

     ―――”デュッセルドルフの吸血鬼”ピーター・キュルテン
         上の台詞は彼が逮捕され、ギロチンで首を切られるまでに愉快そうに語ったもの。
 




「猟奇殺人鬼を追っていたら、面白いのに当たったな、フサ。」

モニターの前に座る二人の男のうち、一人が言った。
染めたものではなく、自然な色とつやを持った長い金髪の、長身白皙で欧米系の外国人だ。
しかし、彼が喋ったのは流暢な日本語。

「はい。この連続猟奇殺人犯―――ドクオという名前なのですが、彼を追っていたら偶然にもこの現場にたどり着きました。」

長身白皙の男にフサと呼ばれた男がそう返した。
こちらはファー付きのコートを着て、ボサボサ髪の毛を茶に染めた、浅黒く肌の焼けた男だ。
口を開くたびに、犬のような犬歯が唇の隙間からのぞく。
男の名前はフサギコ。本名ではないが、彼が目の前の長身白皙の男に仕えるようになってからは、それが彼を指す名前となった。


6 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:21:46.41 ID:AzWCzXT70
「で、こいつは何だ?」

長身白皙の男が指差したのはデスクトップPCの液晶モニターだ。起動されているのはリアルプレイヤー。
再生されている動画の中で、二人の男が殺しあっている。
今、丁度ナイフを持った猫背気味の男とメスを握った男の左手同士が交錯しているところで、長身白皙の男が指差しているのは、メスを握っている方の男だ。

「名前は内藤ホライゾンというようです。2ちゃんねらーのようですが、ドクオと比べて新参のようですね。」

フサギコは訓練された猟犬のような口調と態度で答え、己の鼻を右手の人差し指でトントンとつつくと、さらに続ける。

「”臭い”から察するに、ドクオの方が半年、内藤がまだ一ヶ月経つか経たないか、といったところでしょう。」
「一ヶ月、か。」

男は「一ヶ月」という単語をもう一回口の中で呟くと、やがて短く笑った。

「面白い、面白いな、これは。思わぬ収穫だ。たった一ヶ月でここまで”はずれる”ものなのか。こいつはいい。」

面白いとは言うが、先ほどから男の口調も表情も退屈そうだった。
動画を眺めるその目に、あまり興味はなさそうだったが、それなりに長く彼に仕えているフサギコには、彼がどうしようもないほどに動画の中の男に興味を持っていることがわかっていた。

「こいつだ。こいつを見張ってみろ。」

だから、男がそう言うであろう事はフサギコには予測済みだった。

7 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:22:43.67 ID:AzWCzXT70
フサギコは短く、しかしはっきりと「はい」と返事をして、主の部屋から立ち去った。
主が見張れと言った以上、彼は見張らなければならない。
一分、一秒でも長く見張れるように、一分、一秒でも早く監視を開始しなくてはならない。

「あと、妙な連中も周りをウロチョロしてるようだからな。面倒だったら殺しても構わんぞ。」

消え行くフサギコの気配に向けて、男が言った。
「はい」という返事が部屋に響き終わるか終らないかという内に、フサギコの気配は完全に屋内から消えた。
後にはモニターを眺める男だけが残った。



10 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:23:18.40 ID:AzWCzXT70



夕方、僕は部室で本を読んでいた。
読みながら、考えていた。
昨夜、ドクオを殺したあの路地裏をもう一度訪れたのだが、血の後を残してドクオの死体は掻き消えていた。
地面には血だまりの他にも、何かが這ったような、ひきずられたような血の跡。
警察が見つけてどこかに運んでいったのだろうか・・・・・・。

「・・・・・・・・・・・・君、内藤君。」

だとしたら、警察は一通りあのあたりを調べた事になる。
僕の血も検出されている事だろう。
これからはいっそう目立たないように行動しなければならない。

「内藤君、聞いてる?」

と、ここにきて、やっと僕は部長に声をかけられていることに気がついた。

「なんですかお?」
「だからさ、やっぱり首吊りしか無いんじゃないかなって。」
「は?」


11 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:24:38.99 ID:AzWCzXT70
いきなり何を言い出すのか、この人は。
しかし、部長が唐突に自殺だのなんだの言い出すのは何時もの事なので、軽く聞き流しておく。

「首吊りって、頚動脈が閉塞されるから酸欠で意識が朦朧としててあまり苦しくないんだってね。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「何処か、私の体重を支えられそうな木の枝とか、探しておかないとね。」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
「それから、縄も買わないと・・・・・・・・・。」

何かあったのだろうか、今日の部長の声はやけに沈んでいる。
なんというか、痛々しい。

「なんで部長はそんなに死にたがるんですかお?」

僕は思わず聞いてみた。
すると、部長は堰を切ったかのような勢いで話し始めた。

「私はね、生まれてきた事自体が間違いだったんだよ。生きていてもつまらないし、楽しいなんて思えたことは一度も無い。
 毎日毎日、同じような授業受けて、同じような物食べて、同じような人に合って、同じような事ばっかりしてるのに、なんで辛さだけは増えてくの?
 なんでこんなに苦しいのに生まれてこなきゃいけなかったの?どうして?
 何も知らないうちに生まれてきちゃったのに、どうして死のうとする時だけこんなに覚悟しなきゃいけないの?」

部長は一通り言いたい事をまくし立てると、ため息をついた。
僕はというと、普段物静かな部長の変わりように唖然としていた。
部長でもこんな風に感情的にしゃべる事があるのか。
そんな考えで頭の中が埋め尽くされて、何も考えられなかった。


12 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:25:39.50 ID:AzWCzXT70

「もう・・・嫌だよ・・・。こんなの・・・。死にたいよ・・・・・・・・・。」

それは、僕が初めて見る部長の感情的な表情だった。
痛々しい、本当に痛々しい顔。
悲憤慷慨、九腸寸断、意気阻喪。
そのどれもが当てはまる、何か大きな苦しみに耐えるような、必死な顔。

「・・・・・・・・・死にたいよ。」

もう一度、今度は自嘲気味に部長が言った。
僕は最初は呆然としていたものの、しばらくして思考力が戻ってくると共に激しい苛立ちを覚えた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

なんなんだろうか、この人は。
誰だって辛い。苦しい。生きるのは嫌な事の連続だ。
僕だってできる事ならドクオの事や、警察の事なんて考えずに、思うままに生きたい。
けれど、それはできない。
だから面倒なのも嫌なのも我慢して、なんとか折り合いを付けて生きている。

「・・・・・・・・・・・・そうですかお。」


13 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:26:02.43 ID:AzWCzXT70

生きるのは辛い。
毎日同じような事ばかり続けなければならない苦痛。
同じはずの生活の中で、唯一変化がある苦痛や疲労。
それだけが連続していく惰性の中で蓄積され、大きくなっていく。
嫌なものだけが代わり映えのある毎日。
けれど、それがどうした。
そんなものは誰だってわかってる。
誰だって我慢していきてる。
そんな事をいまさら主張してみたところで、
そんな事を愚痴ってみたところで意味は無い。
今更そんな事には何の意味だって無いんだ。

「じゃあ、死ねばいいですお。」

僕は机から立ち上がると、ゆっくりと部長に近づいていく。

―――落ち着け、落ち着け僕。

だが、僕の足は止まらない。
僕の怒りが足を止めようとはしてくれない。
そう、僕は怒っていた。
どうしようもなく、怒っていたのだった。

14 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:26:38.50 ID:AzWCzXT70

「縄なんてつかわなくても、もっと楽な方法がありますお。」

僕の口は自然と言葉をつむぐ。

「こうやって、両側から頚動脈を圧迫するんですお。気管はできるだけ押さないようにするから痛くないはずですお。」

突然の僕の行動に驚いた部長は、軽く目を見開く。
そんな部長にはお構い無しに、僕の手は部長の喉へと伸びた。

「頚動脈が閉塞して、脳に血が回らなくなれば、ほんの数十秒で意識が落ちますお。ああ、心配しなくても、わけがわからないまま、ボーっとした意識の中で死ねますから。」

僕の手が部長の首筋を両側から押さえつける。
部長の透き通るような首筋は、まるで無機物をさわっているかのように冷たかった。
しばらくは脅えていた部長だが、やがてその目は穏やかなものへと変わっていく。
死ねる事が幸福だとでも言うかのように。
それを見て僕の腹立たしさはさらに膨れ上がった。
最初はやんわりと圧迫するだけだった両手に、少しずつ力を篭めていく。
部長の意識が薄れていくのを見計らって、気管も圧迫。
最終的には、万力のような力で押さえつけて、完全に頚動脈を閉塞させる。
脳に酸素が回らなくなり、脳虚血で意識が朦朧としてきたのか、部長は目を細める。
が、ここに来て急に部長の腕がびくり、と動いた。
自分の意識が遠のいていくのがわかったのだろう。
本来なら、そんな事を自覚する間も無くスッと逝ってしまうはずなのだが、
わざと僕がじわじわと頚動脈を圧迫していったのだ。


15 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:27:03.12 ID:AzWCzXT70

「・・・ぁ・・・・・・・・・ぁぁ・・・。」

部長の口から小さな、途切れ途切れの声が漏れた。
恐らく、「助けて」とかそんな感じの言葉。
しかし、部長はもうまともに声を出すことすら出来ない。
部長の必死の懇願は意味の無い音としてでしか、周囲には響かなかった。
やがて、抵抗するようにびくびくと動いていた腕も、動かなくなり、部長の意識が落ちる―――

――寸前で僕は手を離した。

「ゲホッ、ゲホッ・・・・・・ゲホッ・・・。」

部長はその場に倒れこむと、目元を赤くして涙を滲ませながら盛大に咳き込む。

「死にたいんじゃなかったんですかお?」

必死に意気を吸い込んで吐き出すという単純作業を繰り返す部長に、僕は容赦なくそう問うた。

「・・・・・・・・・・・・・・・ッ!!!!!!」

部長が息を飲む。
土壇場で自分が死を拒否した事をしっかりと自覚しているのだろう。


16 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:27:23.89 ID:AzWCzXT70

「もういいでしょう、部長。あなたは本当に死にたがってるわけじゃないですお。ただ、いざとなったら自殺すればいいと自分に言い聞かせて安心しようとしてるだけですお。」

部長は何も答えない。
彫像のように、床に手を着いた姿勢のまま固まっている。

「あなたはただ、自殺、自殺と連呼して、同じようなものばかりのこの世界で、自分が特別なものだと安心したいだけなんですお。」

その時、部活の終了を告げる鐘が鳴った。

「あなたは死ね無い。」

短くそう告げて、僕は部室を出た。
頭に血が上っているせいか、力を篭めて部室の扉を閉める
怒りによる高揚感の中、僕は何故自分がここまで腹を立てているのかわからなかった。
部室の中から小さな嗚咽が聞こえてきた。














20 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:50:39.83 ID:AzWCzXT70
深夜。
路地裏の入り口に張られたKeep Outと書かれたテープ。
封鎖された路地裏の奥で蠢く者達が数人。
現場から遺留品等を採取している検察達だが、その中に明らかに異質な者達が二人。
黒髪黒瞳の男、日浦相馬(ひうら そうま)と明るい茶に髪を染めた男、城嶋敬(きじま たかし)だ。
仕立てのいい黒いスーツ姿の日浦はともかく、軍パンとどこかのメーカーのロゴの入ったシャツの上からGジャンを羽織っただけというラフな格好の城嶋は、作業着だらけの検察達の中で浮いていた。
闇の中で、城嶋の腕につけられたシルバーのブレスと、首にかけられた同じく銀製のアクセサリだけが輝いている。
しかし、二人が検察官達と同じ制服や作業着を着ていたとしても、百人中百人がこの集団の中から二人を”異質だ”と見分ける事ができるだろう。
二人を異質たら締めているもの、それは雰囲気だ。
彼等の足元にあつのは、地面に広がって凝固した血の痕と、それが這った様な、引きずられたような痕。
そしてその血の痕より少し離れた場所に打ち捨てられている、腐敗の始まった心臓の無い死体。
死体を見慣れているはずの検察官達でさえ、それらを前にして嫌悪感を示しているというのに、この二人にはそれらの感情が全く無い。
日浦は相も変わらず不機嫌な表情で、城嶋に至っては、敏感に血や暴力の臭いを嗅ぎ取って普段よりもさらに笑みを深めている節さえある。

「で、あのガキはどこ行きやがった?」

煙草を咥え、オイルライターで火をつけようとしていた日浦が、こめかみに多少力を入れて極力怒りを押し殺した声で言った。
日浦の言う”あのガキ”とは、彼等が独房から引っ張り出してきた少女の事だ。
彼等と行動を共にしていた無駄にぎゃあぎゃあと騒いでいた少女が、今はどういうわけか見当たらない。

「なんか日浦さんが自販機で煙草買ってる間に『買い物行く』って行っちゃいましたよ。連絡は携帯にって。」

城嶋が言った瞬間、日浦が火の着いたままのオイルライターを握り潰した。
火が無理やり消されるジュッ、という音が響いたが、日浦に暑がったり痛がったりする素振りは見られない。
ライターを握りつぶした腕は抑え切れなかった怒りがにじみ出ているかのように小刻みに震えている。


21 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:51:12.51 ID:AzWCzXT70

「あのガキ、自分の立場わかってんのか?」

自分で握りつぶしてしまったオイルライターを苦々しげに見つめ、ポケットから使い捨ての百円ライターを取り出すと、日浦は言った。
内心の怒りを押し殺しつつも、日浦は考えを巡らせる。
この場合、少女の方は問題ではない。
あんな大量殺人犯を駒として使おうというのだ。それなりの処置は施してある。
少女の首筋、下手に取り出そうとすれば頚動脈を傷つけてしまうような位置には発信機が埋め込まれている。
よく少女の首筋を観察すれば、その部分だけ少し膨らんで見えるはずだ。
つまり、離れていても少女の行動はある程度把握できる。
それに、いざという時は日浦が出て行って少女を処理するだけだ。
自分の力に対する絶対的な信頼と自負、そしてそれらが原因の、大胆とさえ評価される“荒い”仕事ぶり。それこそが日浦がこの場の、この仕事での責任者に任じられた大きな要因となっている。

「それより、だ。」

そう、今は少女のことより考えなくてはならない事がある。

「この出血量だ、連続猟奇殺人犯が死んでるのは疑いようが無い。問題は誰が殺したのか、という事だ。」
「死んでくれたんなら別にいいんじゃねーっスか?これで俺等の仕事も終わりでいいじゃないッスか。」
「お前等の仕事は2ちゃんねらーを捕まえるか殺すかすることだろうが。豚箱に叩き込まれたいか?」
「そんな、俺まだ何も悪い事やってねーじゃねーッスか、実際。」
「そんな事はどうでもいい。これだけ派手に暴れまわってた殺人犯を殺したんだ。今この街に存在する最大の脅威はコイツだ。」
「ちょwwwそんな事ってwwwあんたwwww」


22 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 21:51:36.35 ID:AzWCzXT70

城嶋は「メンドーなのはゴメンッスわ、マジで」等とぼやいているが、その笑顔には普段のヘラヘラした笑い以上の何かが確実に浮かんでいた。
なおもごちゃごちゃとわめく城嶋を尻目に、日浦は紫煙を吐き出しつつ空を見上げた。
この街の夜に、星は見えない。
ただ、ただ、夜空の中央に居座るように黄色い明かりが浮かんでいる。満月だ。
狼男ではないが、満月の夜には血が騒ぐ。
どうしても凶暴な衝動が心の奥底から沸いてくる。
当初の目的だった連続猟奇殺人犯は死んでいる。
ならば、もう日浦達にこれ以上することは無いはずだ。
連続猟奇殺人犯を殺した人間が危険かどうか判断するのも、日浦ではなく”上”の方の人間たちだ。
が、日浦はあえて連続猟奇殺人犯を殺した人間を追おうとしている。
あるいは、あの少女や城嶋よりも日浦自身の方が暴力に植えているのかもしれない。

――満月はいい。何か心の奥に少しずつ染みてくるような迫力がある。

日浦は夜空を眺めつつ、いずれ自分が行使するであろう暴力への喜悦に我知らず震えた。






24 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:08:02.01 ID:AzWCzXT70
―――満月は嫌いだ。なんだか空の上から見られているような気がして、落ち着かない。

僕が空を見上げると、底には偉そうに、唯一夜空に浮かんで輝いている満月。
一体何様のつもりなのか知らないが、でかい顔して僕等を見下ろしている。
本当に、苛立たしい。
僕は満月というのが嫌いだ。
特に理由はない。
だが、人生の中で人間が下す決断の殆どは、最終的にはそういった理由のない感覚に依るものが多いのではないだろうか。

「で、どう思うお?」

自分ひとりの意見で納得してしまうのも何なので、参考がてらに僕は目の前のそいつに尋ねた。

「ヒ・・・・・・・・・ッ」

だが目の前の女は人が質問しているというのに意味のない、喉を空気が通り過ぎるような音を発するのみ。
馬鹿にされているのだろうか。
僕はわりかし真面目に質問したつもりなのに。
一体何様のつもりなのだろう、この女。
ちなみに僕の目の前で左肩と左の大腿から血を流しているこの女は、僕が近くを通るなり声をかけてきたキャッチ。
どうせマルチだかネズミ講だかの勧誘だろう。ちなみに、女の左肩と左の大腿から先には何もない。切断面が広がるだけだ。
他人に迷惑をかけるなんて、最低な女だ。
そう思い、女の顔にナイフを走らせるが、女はもう何の反応も示さない。

25 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:08:20.15 ID:AzWCzXT70
先ほどまではあれだけ「神様、神様、神様」とか「許してください」とか叫んでいたというのに一体どういう心境の変化なのだろうか。
これだから女心という奴はわからない。
まあ、生きたまま目の前で自分の左手と左足を解体するところを見せられたのだから無理もないだろう。
そう無理やり自分を納得させる。
何の反応も示さなくてつまらないので、いよいよもって殺してしまおうか、そう考えた矢先、僕の後ろからメスが飛来。
一体どれほどの力が込められていたのか、メスは女の眼球に突き刺さり、そのまま脳へ到達し、女を絶命させた。

「・・・・・・・・・酷いお。」

僕はメスの飛来と共に背後に現れた気配に向けて呟く。

「酷いお、ツン。僕の獲物だお。」

僕の後ろに立っているのはツン。
僕がキャッチに興味のある振りをして適当に殺す。
そういう段取りだったはずだ。
これは酷い。
まだこれから、生きたまま自分の腸をリボン結びにされる人間の表情を観察していこうと思ったのに。
僕は恨めしげにツンを見る。


26 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:08:45.99 ID:AzWCzXT70

「・・・・・・・・・・・・。」

しかし、ツンはさらに不機嫌そうな顔をしていた。
唇をきつく結び、僕をねめつけている。
一体何を怒っているのだろうか。
僕には全く心当たりがない。
学校では何時も起こられてばかりだが、この”狩り”の最中に怒られるような事はしていないはずだ。
しかしツンは怒っている。
では、僕は一体何をしてしまったのだろうか。
自分の先ほどまでの行動を振り返ってみる。
このキャッチについていって、人通りが少なくなったあたりで後ろから腎臓をぐさり。
後は適当な暗がりにつれこんで手足を夢中になって解体していただけだ。
ん?
”夢中になって”?

「もしかしてツン、妬いてるお?」

僕はここでツンが何に対して気分を害しているのかなんとなく分かった。
目の前に転がっているのは獲物でしかない。女であれ、男であれそれは関係の無い事だ。
しかし、ツンから見れば、自分以外の異性に僕が夢中になって行動を起こしている、というのは気に入らない事なのかもしれない。


27 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:09:11.07 ID:AzWCzXT70

「な・・・ッ!!!バ・・・・ッ!!!違うわよ!!!!突然何言ってんの!!!」

僕が尋ねるとツンが突然うろたえ出す。
ツンの顔は耳まで真っ赤になっている。
なんだか面白かったのでそのままずっと眺めていたら、ツンに殴られた。

「もう今日はこれで解散っ!!じゃあね!!!」

ツンはそう叫ぶとさっさとその場から立ち去ろうとする。
どうやらツンの機嫌をそこねてしまったようだ。
背を向けて僕から離れていくツンの首筋を見ていたその時、僕の心の中で何かが蠢いた。
瞬間、自分の脳裏に生まれた思考を否定する。
僕の手が、反射的に震える。

「・・・・・・・・・・・・ッ。」

わけのわからない衝動に下を向いて耐えていると、やがてツンの姿は見えなくなり、足音も聞こえなくなった。
僕はなんとなしに夜空を眺める。
夜空の真ん中には、やっぱり偉そうにふんぞりかえっているような満月。
それを見ているうちに何もかも満月のせいのような気がしてきた。
腹立たしい。

28 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:11:51.60 ID:AzWCzXT70
僕は、はあ、とため息をつくと、自分の胸の鍵穴に鍵を突っ込んで捻った。
すると、それまで僕の感じていた世界が一変する。
何もかもが鮮やかで輝いて見えていた世界が、急に狭くなって色あせてしまったような感覚。
鍵穴を閉じる時のこの感覚は好きになれそうにない。
なんだかよくわからないが、むかむかした気持ちを抱えたまま路地裏から出ると、そこにそいつが居た。

「よ!」

そいつは小さかった。
そいつはやけに明るい顔で笑っていた。
まるで毎日顔を合わせている見知った仲のように、そいつは気さくに声をかけてくるなり、何かを握った手を振り下ろしてきた。
銀の孤影が暗闇の中で瞬いた。

「な・・・・・・・・・ッ!!!」

殺気が無かったために気づくのが遅れたが、僕は慌ててのけぞるようにそれを避ける。
銀影が僕の顔の前を通り過ぎていった瞬間、確かにその正体が見えた。そいつの振るったのはカッターナイフだ。
それほど大きいものではない。そこらの百円ショップで一本百円で売られているような、何の変哲も無いカッターナイフ。

「やるじゃん。」

そいつは笑いながら、短くそう告げる。

29 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:24:33.98 ID:AzWCzXT70
改めて相手をよく見た僕の目に飛び込んできたのは、小学校高学年かそこらという程度の年の少女だった。身長はおそらく、僕の鳩尾辺りまでしかない。
黒く、ツヤのある髪の毛は長く伸ばされており、白いシャツの上から男物の、銀色のボタンがたくさんついたデニムの黒いジャケットを羽織り、ボトムには細身のジーンズを穿いている。
そして、ジャケットのボタン以外にも銀色に光るものがある。
ジーンズに通された太めのベルトの左右両側面には銀色の、鍵束などに使われている輪が取り付けられている。
そしてそれらの輪に取り付けられ、ぶら下がっている十本近い数のチェーン。
チェーンの先は、同じくベルトの両側面に取り付けられた黒い皮製の煙草を入れるためのケース―――確か、缶コーヒーの懸賞で当たる奴だ―――に突っ込まれている。
それぞれのチェーンの長さはまちまちで、少女が動くたびにジャラジャラと音を立てる。
だが、そんな奇抜なファッションよりも目を引くものがある。
正確に言うなら”無かった”というべきか。
少女の胸には鍵穴が無い。
2ちゃんねらーだ。

「一般人の癖にいい反射神経してんだね、オニーサン。」
「な・・・、おま、誰、」

僕がどもりながら少女が何のつもりでこんな事をしてきたのか尋ねようとしたのだが、少女はお構いなしにさらにカッターナイフを振るった。
やはり殺気は無い。
楽しそうな表情から察するに、”遊んでいる”。
僕は急いでナイフを抜き、カッターを受け止める。
そのまま二合、三合と切り結ぶが、四合目にしてついに薄いカッターナイフの刃がべきり、という音を立てて半ばから折れる。
少女が少し驚いたような、嬉しそうな顔でカッターナイフの刃を収めて後ろに下がる。
そのまま少女は腰から上を後ろに曲げ、足はぴしっと伸ばす。心なし僕に対して斜に構え、曲げた上半身だけを僕の方に向ける。
さらに片手は腰に、もう片方は微妙な角度で手首を捻り、掌を広げて顔の側に持っていき、完璧なジョジョ立ちを決める。
「ズッキューン」とか「ゴゴゴゴゴゴゴゴ」とかいう擬音が背景に出そうな程完璧に。
だが残念な事に、少女にジョジョ立ちはまったく似合っておらず、ちぐはぐな印象しか受けなかった。


30 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:25:00.13 ID:AzWCzXT70

「何者だおまえッ!!!只者じゃないなッ!!!」

そして笑いながら、冗談半分にそんな事を言う。
それは僕の台詞だ。なんなんだこのジョジョ紳士、いや、ジョジョ淑女は。
僕はかわいそうなものでも見るかのような、哀れみの視線を少女に送りながら口を開く。

「いったい何のつもりだお。っつーか、おまえ誰だお。」

僕のその質問は予測していたのだろう。
待っていましたとばかりに頬を歪めて笑いながら、少女が答えた。

「ラスカ。つっても、わかんないかなぁ・・・。」
「・・・・・・・・・・・・ッ!!!!」

少女は嬉しそうにその名前を口にしたが、僕は内心動揺しまくっていた。
ラスカ、三つの小学校に爆弾をしかけ、噂では追いすがる警察官をカッターナイフ一本で返り討ちにし、百人以上を殺傷した殺人犯。
「犯人の画像」としてインターネット上に晒された写真に写っていた少女が着ていたシャツに印刷されたアラスカの文字からつけられたニックネーム。
当然、ここ最近VIP漬けになっている僕がそれを知らないわけが無い。
よく見れば、少女の顔はVIPに晒された画像で見たことのあるような気もする。

「なんだ、知ってるんじゃん。」

僕の驚愕の表情を見て、ラスカが満足そうに笑う。


31 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:26:06.83 ID:AzWCzXT70

「何のつもり、って言ったわよね。そりゃあオニィサン、あーた、決まってるでしょ。こんな夜中の誰も居ない道の上で二人きり―――」

そこでもったいぶる様に一度言葉を区切り、さらに笑みを深める。
一体何を言うつもりなのか。
一体、この大量殺人犯はどういう理由でこんな事をしてるのか。
そもそも、保護観察処分を受けたはずのこの少女が何ゆえ堂々と(人通りの無い深夜だが)外を歩き、なおかつこんな事ができるのか。
少女の返答によってはどうなるかわからない。
それに供えてポケットに入れた家の鍵を掴んでおく。
僕がごくりと唾を呑み込んで緊張しながら続き待っていると、少女が再び言葉を発した。

「―――カツアゲに決まってんでしょ。」
「――――は?」

幼い少女の口から出た全く似合わない単語に僕の思考が停止。口を目をあんぐりと広げる。

「カツアゲ、知らないの?恐喝の事。他人をおどして金品を巻き上げる。」
「いや、それは知ってるお。」
「『よくも人様のカッター折ってくれたのぉ、ワレぇ、眠たい事言ぅとらんと払うもん払えや、ぼけ』、要するにそういう事。」
「・・・・・・・・・・・・。」

僕は再び生暖かい視線を少女に向ける。
ああ、わかった。こいつはアホの子なんだ。可哀想に。
だがラスカは僕の哀れみの視線など何処吹く風とでも言うように、何がそれほど面白いのか笑いながら話し続ける。


32 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:27:31.15 ID:AzWCzXT70

「いやいや、参った参った、参っちゃった。コンビニでカッターの刃補充したかったんだけど、もうお金ないもん。
 嫌な世の中だよね、何をするにもお金お金、まったくお金様は大切だねえ。
 そういうわけで四の五の言わずに金出しなさい。何時か多分返すから貸しなさい。早く。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

僕はポケットで握っていた鍵を離し、サイフを取り出す。
なんだか、相手にするのが馬鹿らしくなってきた。
それより今は、さっさと家に帰って寝たい。

「で、いくら居るんだお。」
「有り金全部ッ!って言いたいところだけど二千円で我慢してやるっ!早く貸せ!」
「・・・・・・・・・・・・。」

ああ、不思議だなあ。どこからかピキピキという擬音が聞こえてくる。
よく耳を澄ますとそれは自分の頭の中から響いていた。
いわゆるこれが、怒りで血管が切れそうになる音か・・・。
僕はそんな感じで少女の居丈高な態度に腹を立てながらも少女に千円札を二枚差し出す。

「無期限無利息でありがたく借りといてやるッ!」
「・・・・・・・・・・・・。」

どうでもいいからジョジョっぽく叫ぶのやめてくれ。
うるさくてかなわん。
だが、少女の目に宿った光や笑顔は明らかに僕がジョジョという単語をだしてツッコむのを待ち望んでいる。
これ以上わずらわしい事に巻き込まれるのはゴメンなので、僕はさっさと背を向けて家路に着く。
が、立ち去ろうとする僕の服の袖を少女が掴んだ。
34 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:51:00.21 ID:AzWCzXT70

「・・・・・・・・・何だお?」

僕が押し殺した声で尋ねると、少女は笑いながら言った。

「金貸すついでにさ、宿も貸してくんない?」
「は?」

何言ってんだこいつは。
いきなり人に切りかかってきておいて、金までふんだくって、さらに泊めろと来た。
馬鹿にされているのだろうか。

「絶対やだお。」
「そんな事いわずにさあ、頼むよニィサン。気前いいトコ見せてくれよお。
 今帰ったら怒られそうだし、道端の石に躓いたと思って一晩宿貸してくれよ」
「事情はわかったお。だが断る。」

僕は強い口調でキッパリと断った。
成るほど、確かにこの殺人犯に帰る場所は無いだろう。
だからといって、こんな大量殺人犯のイカレに同情して宿を貸してやる気にはなれない。
もしもこいつが警察に追われている身なのだとしたら、こいつを追ってきた警察に僕まで捕まりかねない。
それに何より、まだツンも泊めた事が無いのに、何が悲しくてこんな脳内麻薬全開で常にエキサイトしてるイカレガキを泊めなくてはならないのか。

「ふーん、へぇー、そうですか、そうでございますか。そういう気ならこっちにも考えがあるからいいよ。」
「・・・・・・?」

36 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:52:19.55 ID:AzWCzXT70
ラスカはおもむろに人差し指を唇の前に持っていくと、唾を指先につけ、それを目の周囲に塗る。
そのままこの世の終わりかとも思えるほどの悲しそうな表情をつくり、懐から取り出した携帯で写真を撮る。
唾で濡れたその顔は、丁度泣き顔のように見えた。
次に、ラスカは怪訝そうな顔で突然の奇行を眺めている僕を撮影。
パシャ、という音と共にフラッシュが炊かれる。
そして自信満々といった風情で僕を見ると、口を開く。

「この二つの写真であちこちの掲示板に「ロリコンにいたずらされそうです><」ってスレ立ててやる。」

等と、とんでもない事を抜かす目の前のクソガキ。
今すぐこの場で切りつけて、息の根とその行動を止めてやろうかと、冗談無しに思った。

「ちょ、おま、待て。マジ待て、頼むから待て。」

僕は携帯を操作するラスカにむけて必死に懇願する。
が、ラスカは意地が悪そうに笑いながら、追い詰めた獲物を少しずついたぶる様に言葉を紡ぐ。
「鬼の首でもとったような」という言葉があるが、まさにそれだ。


37 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 22:53:00.49 ID:AzWCzXT70

「泊めるか泊めないか、今すぐ決めないとこのスレが立っちまう事になるぜ、ボウヤ。」
「誰がボウヤだお。わかったから今すぐやめてくれお!」
「『是非ともラスカ様に一晩の宿を貸す光栄を承りたいです』はい、言ってごらん。」
「ちょwwwwwwww。」
「まだ立場が分かっていないようね。ちゃんと言えるまでこの写真は削除しないわよ。」
「・・・・・・・・・・・・。」

僕はなんでこんな状況に陥っているのだろう。
頭が痛くなってきた。
結局、僕はこのイカレガキを家に連れて行くことになった。
最終的に、僕があの台詞を言わされたのかどうかについては言いたくない。
それで察して欲しい。






38 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 23:04:56.82 ID:AzWCzXT70

「うわっ!!!広っ!!!静かっ!!!誰も居ないし!!!何?一人暮らし?一人暮らし?」

家の鍵を開けるなり、ラスカは勝手に人の家に上がっていく。
それも土足で。

「うっせ。部屋ならいくつも空いてるから好きなの使えばいいお。あと靴脱げ。」
「じゃあここ!!!!!!」

そう言ってラスカが指を差したのは生前に父が使っていた部屋だった。
それを見て、僕はその場で凍りつく。
ラスカが扉を開くと、そこには父が死んだ日から何一つ物を動かしていない、あの日のままの部屋。
固まった僕を怪訝そうにラスカが振り返る。

「何?どったの?」
「・・・・・・悪いけど、その部屋はダメだお。」

僕がなんとか喉の奥から搾り出すように声を発する。
ラスカも僕の様子から何かを察したのか、深く追求する事無く「ふぅん」とだけ言うと、別の部屋を見に行った。
どうやら頭が弱くて痛々しいわけでなく、他人の事情とか人付き合いでの距離の測り方はわかる子らしい。


39 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 23:05:22.70 ID:AzWCzXT70

「・・・・・・・・・・・・。」

僕は今は誰も使うものの居ない父の部屋の扉を閉じた。
父の部屋の机には、うっすらと埃が積もっている。
僕はあれ以来、父の部屋に入っていない。
父が死んだことを認めたくなかったのかもしれない。
いや違う。
僕は分かっている。
父は死んで、腐って、葬儀場で焼かれて、葬式も済ませた。
僕はきっと、父の居たこの空間を誰にも触れられず、変わることなく保存しておきたかったのだろう。
この部屋に残った父の気配や名残を、そのままにして置きたかったのだろう。
そう、この部屋は僕にとって聖域なのだ。
決して犯されるべきでない場所。
不可侵の聖域。

「・・・・・・・・・・・・つまんない干渉だけどね。」

誰とも無しに呟いて、僕は自分の部屋に向かう。
使う部屋を決めたらしいラスカが騒いでいるのを聞きながら、部屋のドア越しに話しかける。


40 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 23:05:48.41 ID:AzWCzXT70


「枕と敷布団と羽根布団はそこのクローゼットの下の方、毛布はたんすの中でビニールに入ったままになってるから自分で敷いとけお。」

部屋の中から「りょーかーい」という声が聞こえる。
僕はため息をつくと、自分の部屋に入り、着替えもせずに布団の中にもぐりこむ。
なんだか異様に疲れる一日だった。
早く眠って忘れよう。
眠ればきっと全て忘れてる。
ただ、心地.いいだけの睡眠の世界へ・・・。

眠りは、唐突にやってきた。
僕は睡魔に逆らわずに、泥の中に沈みこむように眠った。









41 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 23:11:39.64 ID:AzWCzXT70


早朝。
僕は起きるなりラスカが使っているはずの部屋をノックする。
が、返事は無い。
僕がドアを開けると、そこには普段どおりの空き部屋が広がっていた。
片付けられたのか、最初から使わなかったのか、布団はきちんと箪笥やクローゼットの中にしまわれている。
昨日のあれは夢だったのだろうか。
そう思いつつ、日課とも言えるVIPのスレッドチェックを行う僕は、きっとネット廃人のVIPジャンキーなのだろう。
今日もVIPはクソスレで埋まっていた。

「どのアニメキャラのどの内臓抉りたい?僕は神山満月ちゃんの膵臓!」
「このスレ開いた奴は負け組み」
「俺もついに就職できたぜwww」
「ロリコンにいたずらされそうです><」
「ジーンズの女はヤれる 」
「すげえ事思いついたwww」

そこまで見て、僕は慌てて不吉なスレタイのスレッドに視線を戻す。
何だろう、なんだかとても嫌な予感がする。
あってはならないものを見てしまったような、そんな気が・・・。
神に祈るように繰り替えしそう思いながら、再びスレッドの一覧を眺める。


42 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/04(土) 23:12:09.58 ID:AzWCzXT70

「ロリコンにいたずらされそうです><」

やはり、何度見てもそのスレッドのタイトルはそう読める。

「・・・・・・・・・・・・。」

なんだろう、これは。
悪い夢でも見ているのだろうか。
僕は暗鬱とした気分でそのスレッドを開く。
すると、
>>1には何かのURLが二つ。
拡張子はjpg。間違いなく何かの画像。
猛烈に嫌な予感が僕の頭の中を駆け巡るが、僕はあえてそれを無視してURLをクリック。
そこには見覚えのある画像。
ラスカの泣き顔と、戸惑っている僕の顔。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

どうやら、昨日の事は夢ではなかったらしい。
僕の目の端に液体が溜まった。
多分それは、この世界で最も純粋で汚れの無い涙だろう。

55 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 00:13:53.82 ID:VuDzeEY10
「私はね、死ぬことに決めたよ。」

その日、校門前の登校ラッシュの中で、部長は僕に会うなりそう言った。
僕はあの部室での一見以来、部活に参加していない。
たまに校内で部長とすれ違っても、一言も発することなく通り過ぎた。
なんとなく、気まずかった。
だが、今日の部長はそんな事など忘れてしまったかのように、妙に晴れやかな顔をして話しかけてきた。
今までのしがらみも悩みも無くなったかのような、そんな顔で。

――――なんだろうか、この違和感は。

自由。
部長の顔に浮かんでいたのはまさにそれだった。
何かから解き放たれた、何も自分を縛る物が無いような、そんな自由さが全身からあふれ出していた。
そしてそのあふれ出す”自由さ”のなかで、本当に純粋に、ごくごく自然に笑っていた。
「笑うために笑っている」とでも言えばいいのだろうか。ともかく、「可笑しいから」「楽しいから」といった理由無しに、ただ笑っているのだった。

「じゃあね、内藤君。」

そう言って先輩が背を向けて僕から離れていった時になって、やっと僕はその違和感の正体に気がついた。
僕にむけて話しかけてきた先輩の胸には、確かに最近まであった鍵穴が無くなっていた。

「・・・・・・・・・・・・。」

心の底から笑う先輩にかける言葉も無く、僕はただその後姿を見送った。



56 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 00:14:12.79 ID:VuDzeEY10
だからと言って、僕が先輩の自殺を止める理由は無い。
死にたいと言ってる奴は勝手に死なせておけばいい。
そもそも、胸に鍵穴があったかどうかも、よく覚えていない。
僕のみ間違えだったのかもしれない。

「内藤、今日空いてるか?」

ギコとショボが僕の机までやってきて話しかけてきた。
僕はちょうど帰りのHRを終えて、鞄にノートと筆記用具を詰めているところだ。
教科書は毎日持ち歩くのが面倒なので机の中に入れっぱなしにしてある。
宿題のある教科だけは持って帰るが、面倒なので問題だけ適当にノートに写して、教科書を置いていく事も少なくない。

「いいお。でも二人とも部活があるんじゃないのかお?」

僕が聞くと、二人は「今日は部活の顧問が休みだからサボッててもバレない」と言った。
先輩たちも殆どサボっているのだとか。

「でも、何処行くんだお?」
「カラオケ行こうぜ、カラオケ。オレの美声に酔いしれろ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「なんで黙るの?喧嘩売ってんの?お前ら。」
「悪いけど今日はあまり現金の持ち合わせが無いんだ。」
「ショボ、いくら持ってんの?」

57 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 00:14:37.17 ID:VuDzeEY10
ギコがそう聞くと、ショボは制服のポケットの中を漁る。
チャリチャリ、という小銭のぶつかり合う音。
しばらくポケットの中をかき混ぜていたショボは、やがて小銭を掴んだ手を出して、手のひらを広げる。

「430円。」
「うわ、しょぼっ!ショボ、しょぼっ!」
「煩いな、サイフ忘れてきたんだよ。」
「でも、荒巻の兄貴がバイトしてるカラオケって一人四百円でおkだったはずだお。」
「じゃあそこでいいじゃん。」
「あそこのジュース、味が薄くて嫌いなんだけどなあ・・・。」
「贅沢いうなお、ショボ。」

僕らは学校から出て、歩きながら言葉を交わす。

「・・・・・・・・・・・・。」

言葉を交わしながらも、僕は今朝の部長の事を考えていた。
ぼーっとしていた僕にギコが話しかける。

「―――なあ、なあって!聞いてるか?内藤!」
「あ、ごめんだお、ちょっとぼうっとしてたお。」

ギコが僕へ呆れたような視線を向けると、ショボが口を開いた。

「内藤、まだ周囲の音を脳内遮断するのは早い。ギコの歌が始まってからだ。」
「なあ、ショボ。おまえ絶対俺に喧嘩売ってるだろ?」


58 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 00:15:02.47 ID:VuDzeEY10
そんな事を話しているうちに、目的のカラオケの入っているビルへと辿り着いた。
僕らは店番をしていた僕らよりも年上の店員の言うとおり、名簿に名前を書いて、四百円を払う。
一時間で四百円でドリンク付きなら、それなりに安いのだが、部屋が滅茶苦茶に狭く、防音もあまりしっかりされていないので妥当な値段だとも思う。
そして、僕らはビルの上の階へと登り、店員に言われた番号の部屋に入る。

「相変わらず狭いな、ここ。」
「一時間三百円ならもっと利用するんだがね。」
「そんな事より、誰がドリンクバーからドリンク持ってくるか、ジャンケンで決めるお。」

ここのドリンクはセルフサービスだ。
店員が人数分くれるガラスのコップに、カウンターの側におかれたドリンクバーからジュースを注がなければならない。
最初はグー、で初めて一斉に手を前に出す。
僕とショボがパー。ギコがグー。

「なんだよ、オレかよ。」
「僕はコーラがいいお。」
「ジンジャーエール頼む。」

そう言ってギコはしぶしぶ部屋から出て行く。
ギコはジャンケンをするとかならずグーを出すのだが、本人は気づいていないらしい。
ショボは、「最初はグー」の時にグーを出してから手動かさずに済むからだろう、怠け者のギコらしい、と言っていた。

60 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 00:15:26.66 ID:VuDzeEY10

「今の内にどんどん曲を入れてやれ。」

そう言ってショボが歌の番号が書かれたカタログを眺めながら、チャンネルで番号を入力していく。
よほどギコの歌が聞きたく無いのだろう。
僕もショボに倣って歌の番号をいれていく。
数分の後、ギコが黒い色をした炭酸の液体と、透明な液体、それに自分のカルピスを持ってきた。

「なんだよ、なんでお前等そんなに歌連チャンしてんだよ。」
「ギコの歌聞きたく無いから」
「ちょwwwショボwwwおま、正直すぎだおwww」

ギコは負けじとオレンジレンジの歌をどんどん予約していく。
僕はそんな様子を可笑しそうに眺めながら、ギコの持ってきたコーラに口をつける。
瞬間、口の中に広がる奇妙な味。
反射的に口に含んだコーラを吐き出してしまう。

「うわ、汚っ!」
「ギコ、おまえ僕のコップに何入れたお?」
「別に、ジュース全部入れて、色つけるために置いてあった醤油入れただけ。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」

61 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 00:15:48.34 ID:VuDzeEY10
半眼で睨みつける僕に対して、ギコは悪びれた様子も無く答える。
そんなギコに突き刺さる、僕とショボの冷たい視線。

「よく、飲み放題のドリンクバーでジュース前種類混ぜる奴いるけど、おまえ・・・ まさか僕のにも変なの入れてないだろうな?」
「なんだよ、そんな目でみるなよ。内藤も勿体無いから全部飲めよ。」
「ギコ、自分で飲んでみるといいお。人間の飲み物じゃなお、これは。」

ギコは僕の台詞を一笑に付し、僕のドリンクに口をつける。
瞬間、ドリンクを飲み込んだギコが咽た。
ゲホゲホ、と激しくせきをしながら、目を真っ赤にして下を向く。
ショボが無言でギコの背中をさすってやる。

「まじぃ・・・・。誰だよ、こんなジュース作ったのは!!」
「いや、普通におまえだと思うが。」

そんなこんなで時間は過ぎていった。




67 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 01:05:50.80 ID:5d9pdv9B0
狭い個室の中に、ギコの歌が響く。
あれから一時間がたって、さっさと帰ろうとした僕達を引き止めたのはギコだった。
まだ歌い足りないから。そう言って「もう金が無い」と言って帰ろうとするショボの分を、自腹で払ってまでギコはカラオケを続けたがった。
そうして、延長のための料金を払ってから三十分が過ぎていた。

「Search for a beautiful day〜,and everyday〜, and everyday〜、」

何度聞いても、やっぱりギコの歌は調子っぱずれで下手糞だった。
音痴だとか、そういうレベルではない。
音程が外れているだけでなく、歌詞までものすごいジャパニーズイングリッシュ。
普通、歌ではそれなりに気取ってはネイティブっぽい発音をしてみたりするものなのだが、
ギコは全くそんなことはしていない。「さーちふぉーあびゅーてぃふるでい」と、完全にひらがな変換しても大丈夫な程。
しかし、ここまで下手なのはある意味才能だとすら思う。
僕の隣ではショボが二杯目のジュースを飲みながら「あー、やっぱりここのジュース味薄い」とぼやいている。

「・・・・・・・・・・・・・・・。」

一方、僕は歌いもせず、かといってドリンクも飲まずに天井を見上げていた。
僕の頭の中では部長のあの台詞がずっと響いている。

―――私はね、死ぬことに決めたよ。

・・・・・・・・・・・・。何なのだろうか。
僕は一体、何をこんなに気にしているのだろうか。
部長が死にたいというのなら僕には干渉する理由など無いはずだ。
本人が死にたいというのなら、勝手に死なせておけばいい。
そのはずだ。
だが、僕の脳裏によぎるのは、部長の純粋な笑顔と鍵穴の無い胸。
69 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 01:14:12.06 ID:5d9pdv9B0
「・・・・・・・・・・・・・・・。」

僕は何故あの時、部長が部室で死にたいと泣き喚いた時にあれほど怒ったのだろうか。
死にたい奴が死にたいという事など、僕にはどうでもいい事のはずだ。
死ねるはずもないのに死ぬなどと喚いていて鬱陶しかったから?
人が悩みながら生きているのに、そんなのお構い無しで逃げようとしていたから?
それとも、単純に思春期丸出しの電波気取ってる痛々しい奴を打ちのめしてやりたかっただけなのだろうか。
いや、どれも違う、ような気がする。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

では、あれが部長ではなく、ツンだったらどうなのだろうか。
考えただけで、気分が悪くなった。
死にたいなどといって、逃げ回るツンなど見たくなかったし、ツンが死ぬという事自体、考えたくなかった。
そこに思い至って、ようやく僕は自分があれほど怒った理由を理解した。
あれが部長だったからこそ、僕はあれほど頭に来たのだ。
どうでもいい、初対面の人間や嫌いな人間なら関わらずに放っておいた。
僕はあの学校の後の二時間程度の部活動の中で、まだ始めてから一ヶ月程度しか経っていない部活動の中で、
僅かな時間だけでもあの心地良い、穏やかな時間を共有した部長が死ぬ等という事は考えたくなかったのだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・悪いけど、用事を思い出したお。」

僕は立ち上がると、それだけ告げてカラオケの個室を出た。

70 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 01:14:31.98 ID:5d9pdv9B0
ギコもショボも呆然としている。
ギコなど、歌っている途中なのに歌うのを止めている。
だが、僕は二人を振り返らずに、カラオケ店の入っているビルの階段を駆け下りた。
最後は面倒になって、七段ほど一気に飛び降りた。
丁度、ビルの階段に足を踏み入れようとしていた数人の集団の前に着地。
彼等が驚いて僕を見るが、僕は構わずに駆け出す。
もちろん、目指すは学校。
時刻は五時五十分。
冬の五時五十分と言えば、もう日は沈んでいる。
冷たい空気の暗闇の中を、僕は荒い息をついて走りぬけた。
僕の学校で部活が終るのは六時だ。
六時丁度に鐘が鳴って、部活の終了時間を告げる。
そして、部長は僕の知る限り、一度も部活動をサボった事が無い。
変に律儀な人で、必ず誰よりも早く部室に居て、鐘が鳴ると自分以外の人間が部室から出るのを確認して、施錠をしてから帰る。
そんな部長が、今日の部活動に参加していないとは考えられなかった。
六時に金が鳴って、
僕の居たカラオケ店から、学校までは普通に歩けば25分。
走ればなんとかギリギリ15分で行ける。
2ちゃんねらーになって身体能力が格段に上がっている僕ならさらに短い時間で走り抜ける事が可能なはずだ。
間に合ってくれ。
ただただそれだけを頭の中で繰り返しながら。
僕は必死に走った。
何のために?
部長には、死んで欲しくなかった。
走る理由はそれで十分だった。


71 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 01:14:58.25 ID:5d9pdv9B0
やがて、学校が見えてきた。
明かりは消えている。
僕はあわてて携帯で時間を確認。
時間は六時二分過ぎ。
遅かったのだろうか。
部活を終えて校門から出てくる生徒の波に逆らって、僕は学校の敷地内に入る。
部室を目指して部室棟に足を踏み入れる。
階段を三段飛ばしで上っていき、廊下を駆け抜け、部室の前に行く。
部室のドアに手をかけるが、鍵が閉まっている。
ドアについている窓ガラスから中を覗くが、中には誰も居ない。
先輩が中で首をつっていたり、リストカットしていたりという様子も無い。
―――畜生!
そう思った瞬間、僕の耳が一つの音を捉えた。
階段を上っていくような、規則的な、それでいて少しずつ遠ざかっていくような音。
僕は音の発生源を追って、部室棟の階段を再び三段飛ばしに登っていった。
屋上に向けて。
―――まだだ、まだ間に合う。
自分にひたすらそう言い聞かせて、階段を上っていくと、やがて屋上へと続く扉が見えてきた。
僕にはそれが、天国の扉に見えた。
まさにStairway to heaven。天国への階段。
僕はそれを登っていく。
屋上への扉の前には、外されたダイヤル式の鍵が落ちている。
ここではなく、本校舎の方の屋上の鍵の番号427(死にな)が僕の頭をよぎる。
―――悪い冗談だ。
本当に、悪い冗談だぜ、神様!
僕は無我夢中でドアを開けると、そこには見知った後姿が会った。

72 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 01:19:31.69 ID:5d9pdv9B0

「部長!!!」

間違いなく、疑う余地も無く、どう見ても部長だった。
今朝見たばかりの後姿。
長い黒髪と、一度も日に当たったことが無いのではと思うような白い肌。
部長はすでに、屋上のフェンスの向こう側に居た。
今すぐ走り寄っても、間に合わない。
だから僕は叫んだ。
力の限り、腹のそこから叫んだ。

「部長ッ!!!佐伯美鈴部長ッッ!!!!!」

すると、先輩が振り返った。
呆気にとられたような、驚いたような顔で、目をぱちぱちと瞬かせた。
その胸には、やはり鍵穴が無い。
間違いなく、”開いて”いる。
2ちゃんねらーになっている以上、もう部長は今までの部長ではない。
僕のように、あるいはツンのように、どこかが壊れてしまっている。
今までの常識は通じないし、言葉も届かないかもしれない。
それでも僕は叫んだ。

「部長ッ!!!僕はあなたに――――、貴方に死んで欲しくない!!」


73 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 01:20:42.68 ID:5d9pdv9B0

僕の叫びは部長に届いたようだった。
部長は僕に向けて笑うと―――ああ、畜生、なんでそんなに透明に、純粋に、綺麗に笑えるんだ―――口を開いた。

「・・・名前、」
「・・・?」
「名前、覚えておいてくれたようだね。私は嬉しいよ、内藤君。」
「・・・・・・・・・・・・ッ!!!!!!!」

僕はその部長の笑顔を見て、全てを悟った。
僕にはもう、部長をとめることは出来ない。
僕は遅すぎたのだ。
部長が屋上のフェンスを乗り越える前に追いついて、無理矢理にでも引き剥がしてやらなければならなかった。
もっと早く決断してカラオケを飛び出していれば、こんな事にはならなかったのかもしれないのに。
僕の後悔など他所に、部長は体を虚空へと投げ出した。
部長の背後には、もちろん床など無い。
ただ、夜の暗闇と学校の校舎の景色が広がるだけだ。

「ありがとう、内藤君。死んで欲しくないってのは、嬉しかったよ。」

先輩がそう呟いた。
大して大きな声ではなかったが、夜の風に乗ってそれは屋上の入り口に立ったままの僕にまで聞こえてきた。


74 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 01:21:16.32 ID:5d9pdv9B0
僕は駆け出した。
部長に向けて駆け出した。
間に合わないとか、手遅れだとか、そういう考えは浮かばなかった。
部長の体が重力にひかれて自由落下をはじめる。
僕は屋上のフェンスまでの残り五メートルほどを一足飛びに跳躍。
屋上のフェンスに組み付く。
が、そこまでだった。
部長は満足そうに、しかしどこか厭世的に笑っていた。
死を甘受し、全てから解放されるような、本当にそれを待ち望んでいたような笑顔。
その笑顔を残したまま、部長は頭からコンクリートの地面に激突した。
誰がどう見ても即死だった。
僕は――――







――――間に合わなかった。
75 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 01:37:45.36 ID:gsjaW39+0
今日もカーテンの隙間から差し込む日差しで目が覚めた。
一体どこが悪いのか、僕の部屋のカーテンはどれだけ完全に閉めようとしても隙間が空いてしまう。
いい加減、買い替え時なのかもしれない。
そんなことを考えていても、思い浮かぶのは昨日の部長の死体。
人間の体の六十パーセントは水分なのだと言う。
なるほど、三階建ての部室棟の屋上、高さは14メートル程だろう、
そこからその下のコンクリートで作られた歩道に頭から落ちていった部長の体はトマトが潰れるように飛び散り、コンクリートの地面に張り付き、こびり付いていた。
あの後は警察が来たりといろいろ大変だったので、僕はその場から逃げ出した。
幸い、誰も屋上に立つ僕の姿を見ていなかったようで、何の連絡もお咎めも無い。
部長が死んだというのに、保身のことを考えている自分が心底嫌になった。

「・・・・・・・・・・・・。」

あの時、死ぬ寸前に部長が見せた笑顔。
死を甘受するような嬉しそうなだけでなく、皮肉げな、世の中全てを馬鹿にするような笑顔。
あれは、この世のすべてに対して哂っていたのだ。
哂いながら、問いかけていたのだ。
そんなに必死に生きてて、何になるのか。
お前らの人生に意味などあるのか。
あの時、部室で泣きながらわめいていた事を、世界中に向けて問うていたのだ。

76 :無糖栄助 ◆HOKURODlk6 :2006/03/05(日) 01:38:06.05 ID:gsjaW39+0
あの部長の笑顔は言っていた。
お前らはこんな簡単なことも出来ない、と。
お前らはただ、何の覚悟もする間もなく生まれてきて、自ら人生を終らせる事も無く、ただただ、何の覚悟も無くだらだらと惰性の中で日常を消化していくのみだと。
僕には部長の選択が、自殺が部長にとって本当に最良の道だったのか分からない。
僕は部長のあの笑顔へ答えられるだけの言葉を持たない。
僕には、あの部長を止められるだけの何かが無かった。
そして、きっとこれからも僕は部長のあの笑顔に答えをあげる事はできないだろう。
それでも僕等はきっと生きていく。
面倒だけれど、大変だけれど、本当にどうしようもないほど馬鹿馬鹿しくてくだらないけど。
それでも僕等は生きていく。
何時か、先輩のあの笑顔を馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばす事が出来る日が来る事を信じて。












第九話・完
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