- 6 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
21:20:10.49 ID:gUhE/LTA0
- 【Ninth Color : Black】
陽炎が揺れている。
その実体は掴めず、ただ、俺の視界を惑わせる。
死とは、例えるならそんな感じだった。
『……死ぬんだお……もう、ダメなんだお……』
か細い内藤の掠れ声。
嗚咽が入り混じって、聞き取るのが困難になっていた。
しかしそれは、決して内藤のせいだけではなかった。
『毒尾と屋上で別れた次の日から……しぃちゃんは体調を崩して……そのまま入院したお……それから一ヶ月近く、ずっと苦しんで……』
頭上から鴉が一羽舞い降りた。
俺のほうを見ることもなく、すぐに再び飛び上がる。
黒い線を俺の頭に残して。
『もう、明日は迎えられないって……さっき、医者はそう言ったお……』
内藤が、はっきり声を上げて泣いていた。
俺は、相変わらず体が硬直したままで、唇さえ、動いてくれなかった。
- 7 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)21:23:44.42
ID:gUhE/LTA0
- 『意識も失ったままだお……ブーンが最後に話したのは三日前だお……今まで何回も言われてた言葉を……"ドっくんには絶対言わないで"っていう言葉を最後に……意識は戻ってないお……』
単純な言葉で言うなら、苦しさ。
それが、俺の心に突き刺さった。
何故だ、何故なんだ。
『何で……なんで俺に黙ってたんだよ……!!』
何故、全てを秘密にしていたんだ。
彼氏だった。お互い支えあうべき、恋人同士だった。
死に立ち向かい、生を得ようとするなら、俺に全てを打ち明けてほしかった。
一緒に、椎野と歩みたかった。支えたかった。
椎野はその孤独を何とも思わなかったのか?
そんなはずはない。
怖かったはずだ。震えていたはずだ。
それなら俺に何もかも話してほしかった。
寂しければ一緒に居てやれた。恋しければ側に居てやれた。
何もかも、椎野の望みどおりにしてやれた。それなのに、何故なんだ。
『……毒尾が、何もかも望みどおりになってしまうからだお……』
唐突、そして意外すぎる一言に、頭が白くなった。
切れかけた公園の灯りが、明滅を繰り返していた。
- 12 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
21:27:44.52 ID:gUhE/LTA0
- 『しぃちゃんは……そんなの、望まなかったんだお……』
『何でだよ! それが分かんねぇよ!!』
『とにかく今はそれどころじゃないんだお!!
しぃちゃん、しぃちゃんホントに死んじゃうお!!』
はっとした。
椎野が、死んでしまう。独りで、死と戦ったまま。
それなのに、こんなところで内藤と口論など、している場合ではなかった。
とにかく走り出した。駅へと向かって。
『椎野はどこにいるんだ!? 教えてくれ!』
『東京だお! 早く来るんだお!!』
『……東京!?』
唖然とし、愕然とした。
東京。普通に電車に乗っていけば、3時間半はかかる。
遠すぎた。
『何で東京なんだよ!
こっちじゃねぇのかよ!』
『当たり前だお! そっちのショボい病院じゃどうしようもないほどの病気なんだお!』
3時間半経てば、時間は午後11時。
明日は迎えられない、と医者は言った。午後11時。椎野は、まだ熱を保っているだろうか。
- 15 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
21:31:09.41 ID:gUhE/LTA0
- 『東京駅で待ってるお! 早く電車に乗るお!』
『今改札くぐった! 早く、早くしないと……』
独り言のような焦りが、口から飛び出す。
すぐにホームに降りて、停車していた電車に乗り込む。
2時間ほど乗ったあと、乗り換えて更に1時間半。
長すぎた。
内藤との電話と切って、座席に腰掛けた。
乗客も疎らな電車の中では当然、隣に誰かが座ってくることはない。
それでも、襲い来る寂寥感。
3時間半ですら、耐えられそうになかった。
去り行く風景をただ眺めるだけだった2時間を終え、急いで電車を乗り換える。
靴を脱いで眠るサラリーマンが何人か居るだけで、やはり人は多くない。
窓際に座ると、左側の空虚感が辛く、あえて通路側に座った。
窓の外を見る気にもなれなかった。
夜も更けてきたが眠くはならず、ただ呆然としていた。
今までのことを思い出そうとしても、何故かすぐにぼやけていく。
結局頭に残るのは、電車が刻む規則的な音と、外の闇の色だけだ。
そうしたまま、電車は東京駅に到着した。
- 19 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
21:35:19.76 ID:gUhE/LTA0
- 「内藤!」
「毒尾! 遅いお!」
「早く病院に連れてってくれ!! 椎野は、椎野はまだ大丈夫なんだよな!?」
「かなり危険な状態だお……とにかく早く行くお!」
地下鉄に乗って、20分。
更に降りてから走って10分。
ドラマにでも出てきそうな大病院に着いた。
「こっちだお!」
内藤が再び走り出した。
病院の正面を過ぎ、裏側の出入り口から中へと入る。
暗く、静かな廊下。
二人の走る音が騒々しく響き渡る。
仄かな光に作り出された影は、離されることもなく密着している。
どれだけ早く走っても、逃れられない。あがけば、疲れるだけだ。
その影の意味を、深く考えないようにして、急いだ。
階段を数段飛ばしで昇った。
息を切らし、肩で呼吸しながら、それでも急く。
何階まで昇ったか分からなくなったとき、ようやく、到着したようだった。
「ここだお……」
- 21 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
21:38:45.14 ID:gUhE/LTA0
- 内藤の息遣いもかなり荒くなっていた。
汗ばんだ手で病室の扉を開け、慌てて中に入る。
中から光が漏れることはなく、月の青白い光にのみ、その部屋は照らされていた。
そして、その部屋の中心で、家族と医者が、ベッドを囲んでいる。
そのベッドの上に、確かに椎野は居た。
「……君は……毒尾くん……?」
窓に背を向けた女の人が、言葉を向けた。
顔は確認できないが、母親だということはすぐに分かった。
「知らせたのね、ブーンくん……」
「……すみませんお……でも、でも、そうしたほうが」
「分かってるわ……私もずっとそう思ってたから……ありがとう、ブーンくん」
医者と看護婦が一人ずつ、母親と姉らしき人物。
病室に立っていたのは、四人だけだった。
「わざわざ遠くまでありがとう、毒尾くん……」
「……いえ……」
「由依もきっと喜んでるわ……」
「……そんな憶測は、どうでもいいです……」
- 25 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
21:43:24.11 ID:gUhE/LTA0
- ベッドの左側に近づき、椎野の顔を見た。
目が閉じられ、呼吸は淡い。
頬も少しこけている。
「意識は……」
「ずっと戻ってないわ……」
声が聞きたい。
話したいことがたくさんある。椎野の口から直接聞きたいことも、山ほどある。
しかし、椎野は微動だにしない。
「……しぃ……」
呟いて、握りなれた椎野の右手に触れた。
椎野の熱を感じる。確かに、生きている。
しかしもう、喋らないのだろう。
何も伝えられない、何も伝えてくれない。
このまま、ただ、首に巻きつく静謐に耐えながら、死を待つのか。
それで、全てが終わってしまうのか。
「……ドっ……くん……?」
- 30 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
21:47:16.81 ID:gUhE/LTA0
- 篭った声。
弱弱しく、消えかけた。しかし確かに響いた。
椎野が、俺を見ていた。
「しぃちゃん!」
「由依!」
「椎野さん! 意識が……!」
「静かにしてくれ!!」
椎野が何かを喋っている。しかし、周りからの声で聞き取れない。
絶え絶えの息遣いで、掠れた声を必死に絞り出していた。
「これ……とって……」
口の周りの透明なプラスチックを見ていた。
すぐにそれを剥がしてやる。医者が何か言いかけたが、結局口を噤んだ。
「あり……がと……やっぱ……やさしいね……ドっくん……」
薄く開いた瞼。鈍々しく開く唇。
あまり脆弱な笑顔。
儚さとは、きっと、こういうことだろう、と思った。
- 32 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
21:50:40.72 ID:gUhE/LTA0
- 「……わたしのこと……しぃって……さっき……はじめて……呼んでくれた……よね……」
言われて、初めて気づいた。さっきそう呼んだことも、今までそう呼称しなかったことも。
何故か、少し照れた。
「うれしかっ……たよ……ありがとう……」
しぃが、精いっぱい笑おうとしてみせ、しかしぎこちない笑顔になった。
顔の筋肉が上手く動かないのかも知れない、と思った。
「おかぁ……さん……」
慌てるように、呼び止めた。
他の五人が、病室を去ろうとしていた。
「ごめ……んね……いっぱい……迷惑……かけて……」
母親の目から、大粒の涙が零れ落ちていた。
何か言おうとしているが、言葉になっていない。
「おねえ……ちゃん……わたしの、ために……学校……やめて……働いて……お金、かせいで……くれて……ありがとう……」
姉の嗚咽も、あふれ出していた。
ただ流れ落ちる涙とともに。
- 38 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
21:54:09.04 ID:gUhE/LTA0
- 「内藤君……ありがと……やっぱ……ちゃんと……わたしの口から……いわなきゃ……ダメなん……だよね……」
内藤の表情は、闇に隠れていてよく分からない。
しかし、足元が月明かりを浴びて輝いているのが確認できた。
「……わたしが……わるいん……だもん……ね……」
五人が、病室から、静かに退出した。
「……ドっくん……ゴメン……ね……」
「……何を謝ってるのか、分かんない……」
「ぜんぶ……わたし、最低……最低な……女だった……から……」
「一緒に居て楽しかった。本気でしぃのこと好きだった。しぃも、俺のこと好きだって、思った。なのに……」
聞かなければならない。
しぃが、まだ、意識を保っているうちに。
「……なんで……病気のこと、黙ってたんだよ……!」
内藤には全てを話し、俺には全てを隠していた。
納得できるはずがなかった。
「……ゴメン……ね……」
- 43 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
21:57:54.60 ID:gUhE/LTA0
- しぃのこめかみを伝う涙。
潤んだ瞳は、まだしっかり光を持している。
「話そうって……思った……なんども……なんども……」
「俺に話してもしょうがないからか……?
俺じゃ、力になれないから……?」
「ちがう……! そんなんじゃ……ない……!」
「じゃあなんで!!」
語気が自然に荒くなってしまった。
冷静になれ、感情を抑えろ。自分に言い聞かせた。
「……ドっくん……やさしい……から……病気の、こと……打ち明け……たら……対等じゃ……なくなっちゃう……」
「対等……? 俺と、しぃが……?」
「うん……」
「……俺が、しぃにずっと気を遣って……しぃの望むことは全部叶えて……立場が下になっちゃう、ってことか……」
微かに、しぃが頷いた。
「そんなの……ドっくんに……失礼だもん……せっかく……わたしのこと……好きに……なって……くれたのに……」
不意に、暗い影が降りた。
心の、奥底で、寝息を立てていた。それが、起こされた。
そうだ。そうだった。
あれを、言わなければならない。
全ての発端である、策略のことを。
- 49 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:01:36.34 ID:gUhE/LTA0
- 「……しぃ……ゴメン……俺……」
「ドっくん……最初、わたしのこと……好きじゃなかった……よね……?」
血の気が引いた。
気づかれていた。しぃは、気づいていた。
申し訳なさが体中からあふれ出そうだった。
「ゴメン……ゴメン……! 俺、俺……すっげぇ下らないこと考えて……しぃに告白して……まさか、俺みたいな奴相手に、オッケーするって思ってなくて……俺……」
「あやまら……ないで……ドっくん……わるいのは……わたしのほう……だから……」
「……は……?」
また、不意だった。
しぃに非など、一つもない。なのに、悪いのは私のほう、と言っている。
錯乱した。
「……すごい下らないこと……っていうのが……なんなのか……それは……あえて……聞かないけど……」
しぃの息がまた荒くなってきた。
苦しそうに言葉を発する。しかし、止めることはできない。
頑張っているしぃに、やめてくれとは言えない。
「でも……わたし……利用した……」
しぃの表情が、少し、穏やかになった。
しかしそれは、限りなく、恐怖の色にも近かった。
- 55 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:05:38.94 ID:gUhE/LTA0
- 「わたしの……目的のために……ドっくんの、告白……利用したの……ゴメンね……ゴメンね……」
止め処なくあふれ出す涙がシーツにシミを作る。
手でその涙を拭ってやる。涙は、生温かかった。
「……目的って……何なんだ……?」
「……すごく……自分勝手……だから……わたし……最低……」
また、顔を伝う涙。
掬い上げるように、そっと、指を這わせる。
人差し指が月光を浴びて煌いた。
「わたし……ね……死が、近いって……知らされて……すごく……怖かった……」
荒ぶる息遣いを、必死で抑えようとするしぃ。
目を閉じたとき、再び涙が流れ落ちた。
「なにも、残せない……ままで……死んじゃう……のが……いやで……いやで……怖くて……怖く……て……」
しぃが軽く咳き込んだ。
繋がれた手に、力が伝わる。しぃが、強く、しかし弱弱しく握り締めていた。
「……わたし……赤ちゃんが……ほしかったの……」
- 60 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:08:59.27 ID:gUhE/LTA0
- しぃの力が、更に強まった。
繋がった。しぃがあれほど性交したがったわけは、ずっと気になっていた。
普通、避妊なしでセックスしようとは考えない。だが、最初から、しぃの狙いは、妊娠だった。
そのために、俺の申し出を受け入れ、そして懐妊を願った。
ただ、自らの生きた証のために。
「ゴメンね……ホントに……ゴメンね……」
しぃの涙を、拭う気になれなかった。
「だから……ドっくんに……嫌われて……しょうがないって……思った……わたし……最低……だから……」
「……でも、あの屋上でのことと、これは、関係ない……」
「罰だ……って思った……ドっくんの、好意を……利用した……罰が……」
「違う……俺だって、しぃのこと、好きでもないのに告白した……だからお互い様だ……」
「……だけ……ど……だけど……」
「もういい……やめよう……今更言ったってしょうがないことだ……」
脆く、崩れそうなほど柔いしぃの手を、ぎゅっと握り締めた。
しかし、握り返すしぃの力は、あまりに弱い。
「俺、しぃと一緒に居て……凄く楽しかった。毎日が充実してた……本気で好きになれた」
「わたし……も……ドっくんと……いっしょのとき……たのしくて……うれしく……て……」
しぃが再び咳き込んだ。
心配になって、大丈夫か、と問うも、しぃは微かに笑っただけだった。
- 65 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:12:49.01 ID:gUhE/LTA0
- 「心から……好きに……なれた……ホントに……大好きな、人……たいせつな……人……」
「……俺もだ……」
「……だから……ぜんぶ……話し……たかった……だけど……話せな……かった……」
「対等でありたいって思ってくれたのは、嬉しいけど……でも、俺は……しぃを……支えたかった……」
「……ゴメ……ンね……」
今更何を言っても、遅すぎた。
しぃの考えは理解できるし、仕方のないことだとも思う。
それでも納得しきれない。
これまでのことも、これからのことも。
(……本当……に……)
本当に、しぃは、死んでしまうのか?
今、生きている。目の光は虚ろでも、声は掠れていても、生きている。
なのに、死ぬということなど、あり得るのか。
「死ぬのは……こわく……ないよ……」
しぃが、唇を震えさせながら声を出した。
しかし、微笑んでいるようにも見えた。
「……ドっくんを……振り回して……勝手に……迷惑……かけて……そのまま……死んじゃう、のが……すこし……心残り……だけど……」
「迷惑なんかじゃない! 俺はホントに、ホントに、しぃのことを大好きになって……一緒に居れて、嬉しくて……」
「……わたしも……だよ……」
- 68 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:16:34.90 ID:gUhE/LTA0
- 夜月が翳る。薄雲が空に襲いかかる。
もう、長くないのだ。時間は、幾許かしか、残されていないのだ。
それが、はっきり分かった。
「……だから……本当に……ドっくんの、こども……欲しかった……愛してた……から……」
俺の手を握るしぃの手が、不意に、冷え始めた。
まだ熱を感じる。しかし、失われつつある。
死が、熱を奪っていく。
「好きに、なれて……愛して……もらえて……わたし……幸せ……だった……」
「やめてくれ……そんな、そんな……最後の言葉みたいな……そんなセリフ……!」
「ゴメン……ね……でも……もう……」
俺の右手から、零れ落ちるしぃの右手。
判然と、しぃの手に、力がなくなっていた。
そして、輝く薬指。
「……指輪……」
「あっ……」
しぃが、焦りを見せた。
力を振り絞って、慌てて、手を固く閉じる。
しかし、指輪が隠れるはずはなかった。
- 75 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:20:26.64 ID:gUhE/LTA0
- 「……バカ……だよね……フラれた……のに……こんなの……付けて……」
痩せ細った指には、あまりに不釣合いな指輪だった。
今にも抜け落ちそうなほどに。
「これを……外すと……ホントに……ドっくんと……離れ、離れに……なっちゃう……気がして……」
「……ずっと、つけてたのか……?」
「ゴメン……ね……ただ……ひとりが……つらくて……」
また力が弱まって、広がるしぃの手のひら。
そっと、触れた。
「外して……いいよ……私、もう……ドっくんの……彼女じゃ……ないもんね……」
言って、しぃは少し首を振る動作を見せた。
はにかむように、申し訳なさそうに。
「いいよ……じゃないね……えらそうに……ゴメン……お願い、だから……外して……」
戸惑って、しぃの、薬指に触れる。
指輪を摘んで、ゆっくり、その指から抜いてやる。
悲しいほど、スムーズだった。
そしてそれを、左手の薬指に、嵌めた。
- 84 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:25:30.97 ID:gUhE/LTA0
- 「えっ……」
しぃは一瞬、わけが分からなさそうに、左手と俺を交互に見つめた。
顔が赤らむ。困惑、そして喜びを主張するように。
「結婚しよう、しぃ」
左手を固く握りしめた。
しぃの吐息が荒くなる。しかし、苦しいのではないと分かっていた。
「ずっと一緒にいよう……結婚して、ずっと一緒に……一生愛するから……」
「ダメ、ダメ……! ドっくん……私の、ことは……忘れて……!
ドっくんは……もっと……いい子と……幸せに……」
「愛したいんだ……しぃと一緒に居たいんだ……だから、生きよう……ずっと支えあって……生きよう……」
しぃの体を、抱きしめた。
伝わる体温が、俺に安らぎを与える。
一生触れていたい、感じていたいと思った。
しぃは、右手で眼を覆っていた。
「……うれしい……よぉ……」
涙声が微かに聞こえた。
鼻水をすする音よりも小さかった。
- 92 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:28:46.19 ID:gUhE/LTA0
- 「結婚……したい……ドっくんと……ずっと……いっしょに……いたい……」
しかし、喜びに満ち溢れた表情は、徐々に、悲しみへと移ろった。
「なのに……なんで、なんで……!」
あふれ出る涙を、止める術はなかった。
「……死にたく……ない……」
悲痛な、叫び。
それでも、天邪鬼のように、しぃの時間を削り取る死。
何の権利があるんだ。こんなに生きようしているのに、どうして、どうして!
ただしぃに触れることしかできない。
何もできず、ただ、死を共に待つしか。それしか、できない。
死の前では、何もかもが、あまりに無力だ。
「死ぬのは……いや……怖い……いや……いやだよ……なんで……どうして……!」
「しぃ……!」
はっきりと、しぃから熱が消えていく。
もう、数分もない。確実に、明日は迎えられない。
何故か、そう感じた。
- 96 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:31:53.74 ID:gUhE/LTA0
- 「幸せ……だったよ……ありがとう……いろいろ……ゴメンね……」
「謝らないでくれ……俺だって、しぃにいっぱい幸せもらったんだ……」
「……だけど……勝手に、いなく……なって……ゴメン……」
寒気がするほど、冷え切ったしぃの手。
死の色に、もうほとんど、染まっていた。
「……ドっくんは……ちゃんと……他の人と……幸せに……なってね……」
「しぃ以外考えられない。他の人なんて……そんな……」
「ダメ……ダメ……忘れて……ドっくんが……幸せに……なってくれなきゃ……わたし……つらい……本当に、好きだから……こそ……」
数秒迷って、頷いた。
そうしなければ、しぃは、安心できない。それが分かった。
「……ありがとう……」
しぃが、一つ、大きな息を吐いた。
疲れきった表情を隠そうともせず、ただ、脱力していた。
抗うのをやめたのだ、と分かった。
- 101 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:37:04.77 ID:gUhE/LTA0
- 「……たのしかった……なぁ……」
いつしか、厚い雲が空に広がっている。
月は隠れてしまい、しぃの瞳に、光を与えることはなくなっていた。
「わたし……ホントに……幸せもの……だった……ドっくん、っていう……最高の……人に……であえた……から……」
0時まで、あと、20秒。
同時に、恐らく、タイムリミットだ。しぃもそれを、心のどこかで、何故か、分かっているようだった。
抗する術は、何もなかった。
「……いっぱい、いっぱい……ありがとう……」
いったん、閉じられた瞳。
また、薄く開いて、微笑む。
最後だ、と分かった。
微かに震えながら、唇が、動く。
しぃの表情は、満ち足りていた。
- 111 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:41:42.37 ID:gUhE/LTA0
「バイバイ……ドっくん……」
- 115 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:42:49.19 ID:gUhE/LTA0
- 光が、消えた。
静寂に包まれた空間で、俺は、独りになった。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
あまりに空虚な空間に、響き渡る慟哭。
もう居ない、もう居ない。
あれほど愛したしぃは、もう、居ない。
二度と、俺に熱を与えてはくれない。二度と、笑いかけてもくれない。
二度と、帰ってこない。
モノクロームな天使が、俺としぃの中核を、奪い去っていった。
家族や医者が病室に入ってきても、俺はずっと、泣き叫んでいた。
どうすることもできずに、ただ、ひたすらに。
視界は、純粋すぎるほどの黒に、覆われていた。
- 118 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:46:13.64 ID:gUhE/LTA0
あまりに強すぎた喪失感によって、俺はしばらく病院のベッドの上だった。
何も考えられず、何もする気になれず、ただ転がっていた。
抜け殻のように。
俺も、死んでいるのではないか。
そう思うことが時々あった。
大切なものを失った。それは、命と等しいほど、重かった。
ならば、今の俺は、屍も同然だ。
ただ呼吸をしているだけで、それ以外、しぃとなんら違いはない。
俺もいっそ、焼かれたほうがましか、と思った。
- 127 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:51:03.02 ID:gUhE/LTA0
- そんな時だった。
病室に、しぃの姉が訪れ、そして、俺に一冊のノートを手渡したのは。
「……日記……?」
「由依が、死ぬ直前までつけてた日記……多分、君には読む権利があると思う」
姉の手は、ずいぶん細かった。
前からそうだったのかどうかは知らないが、心労しきった表情を見れば、大体察することができた。
「……きっと、由依のストレートな気持ちが、分かるはずだから……」
そして、姉は病室から立ち去った。
- 136 名前:第9話
◆azwd/t2EpE 投稿日:佐賀暦2006年,2006/10/22(佐賀県庁)
22:53:48.68 ID:gUhE/LTA0
- 真っ白な表紙に、ただ一言、日記とだけ書かれている。
俺は、その表紙を、ゆっくりめくった。
第9話 終わり
〜to be continued